昭和四十三年六月九日 朝の御理解
立教神伝 「この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子もたち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き」
今日も立教神伝のご内容から心得を頂きたいと思います。
昨日は最後のところの一節を頂きました。今日は次ぎ、さかさまみたいですねぇ。今日はここんところから頂きます。
「其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ」という、そのつぎの「此方のように実意丁寧神信心いたしおる」という、ここを昨日頂きましたね。だから、その前のところ。
四十二歳のあの御大患の事を言われております。四十二歳の御大患と言うのは、のどけを患われた。命も難しかろうかというときに神様のおかげで全快しておられることをここでは、天地の親神様がその時のことを指摘しておられる。四十二歳のときに、あのときに病気で医者も手を放した。そこんところを神仏に願いをかけて、全快いたしと。その時死んだと思うて、欲を放して天地金乃神を助けてくれ。
ここんところを頂きますと、金光様の御信心が神様の願いで出来た宗教だということが分かります。神の願いによって出来た宗教なんです。
様々ですよね、宗教というのは。自分が艱難辛苦、いろんな修行して、そして、教主という方が悟りを開いて、そこから、自分が道を開かれた。仏教なんかは、お釈迦様が開かれた。ところが、お道の信心はそうではない。天地の親神様の願いによって金光教の信心が生まれたということが、ここんところで分かります。しかも、願いをなさっておられる神様が、切々と願っておられるけれども、ここへ、大変な厳しいことを言うておられますね。
「その時死んだと思うて欲を放し」と仰っておられる。なかなか頼む方側としては大変なことですよね。「死んだと思うて一ちょやってくれんの」というのですから。しかも、欲を放してと言うておられる。あの時死んだと思うて、しかも欲を放してと。なぜそのような厳しいことを仰られなければならなかったのか。
天地の親神様ならば、もう少し楽に、「まぁ、神が働くから、お前は楽にしとっていいから」、とにかく金光教という信心を開いてくれと仰っても良いと思うのですけれども、頼んでおられる上に「欲を放して」、「死んだと思うて」と言うような、普通の人間ではとても出来ない。とても頼まれないようなことを、言うならば、頼んでおられますね。
しかも、それが奥様にまでお頼みになっておられます。「家内も後家になったと思うて」とこう仰っておられる。「後家よりもまし。物言われ相談も成り。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ」とこう言うておられます。お前の主人を取り上げるからには、お前には楽をさせる。まぁ、費用取りでも雇うてから、主人の代わりにやってくれとは仰っていない。お子さんがまだ小さい。その子供さんを相手に、ぼとぼと農業しおってくれとこう仰っておられます。
本当に言えば無理な願いである。無理なことである。そこを教祖の神様は受けられて、立たれた訳でございますけれども、ここのところを頂きますことによってですね、金光様の御信心の成り立ちというものが分かります。
神の願いによって開けられた。しかもその願いが、始めから非常に厳しいことであった。「死んだと思うて」、しかも、「欲を放して」。人間に欲を放せということは非常に難しいことだ。なぜそのような厳しいことを仰られなければならなかったのか。しかも、お家族の方達にまで、中心になってお百姓をされる方までおられるのに、子供相手にまぁ、ぼつぼつやってくれというのである。これだけの恩賞を取らすからと言うのじゃないのです。
神様ならもちっと、何か条件が、主人を神の用に使うからには家内達も楽に立ち行くような風にしてやろうとは仰っていない。奥様も子供さんも始めから、言わば苦労を承知でと、こういう訳なんです。そして、ここで分からして頂くことは、そういう神様の厳しい願いが、教祖の上に願いが出された。そしてその願いを受けられたところから金光様の御信心が始まった。だから、神の願いによって金光教という信心が生まれたということが言えますね。
いかにも、こちらから神様どうぞ、いっちょお道を開かせて下さいと言うてと言うなら難しい。けれども、神様の方から頼みに来なさったのじゃから楽に違いない。
例えば、お商売に致しますとね。外交しながら商売をしていくという商売がありますね。外に出て商売をするのです。一件一件回って商売をするのです。お店を構えておいて、そしてお客さんに来てもらうという商売と。所謂外売り座売りというですね。座ってするという商売と、出て歩いての商売。そりゃ勿論出て歩いての商売というのは難しいのです。要るやら要らんやら分からんところへ入っていって商いをするのですから。それと、座売りということになりますとそれとは反対。もう始めから、何かを買おうと思うてその店にやってくる。ですから腰が強い訳です。ね。買いに来たお客さんに商いをするのですから。ですからその店が、信用のある店でなければ座売りは出来ないのです。どうですかね。その店に信用が無からなければ、店を張っての商いは出来ないのです。それは、受け身で行くのですから見やすい。見やすいけれども、ここに一つの難しさというのが、「欲を放して」と。教祖の神様に「欲を放れよ」と。なぜ欲を放れさせなければならなかったかと。天地の親神様が。「死んだと思うて欲を放して天地金乃神を助けてくれい」とこう仰っておられる。欲を放してとこう仰っておられる。
ですから、ここに店を張って商売をさせて頂くからには、何処よりも品物が良い。しかも安い。しかも真心込めての定員達のサ-ビスが良い。そういう、例えば、店を張っておりますと、始めは知らんで買いに来る人もあるかも知れませんけれども、買いに行ったところが、品物は悪かった、値段は高かった、サ-ビスは悪かったというなら、「もう二度とあんな店に行くもんか」ということになるでしょう。
ところが、その反対に品物も安い、良い品物をしかも、あちらで売っておられる人たちが、なかなか親切でサ-ビスも良かったというのであって初めて、又、信用が信用を生んで商いが繁盛することは間違いがないのです。ですから、座売りは受け身で見やすいけれども、ここに、そういう一つの難しさが、「欲を放して」というところが必要なんです。何処よりも安い。十円で売るものは八円で売るというようにです。安く良い品物を、そういう欲を放してというものがなからんとその店は繁盛しないのです。受け身ということは見やすいようであって、だから難しいというのは、内的に難しい。 それは、外へ出てからのは、私も商売をさせて頂いたから、言うならば店を張っての商売もさせてもらい、外交して回った時代もございました。これはもう強引に押し売りのように言うて、「まぁ取っときなさい」「まぁ買うときなさい」と言うて、押しつけて売ることもできますよ。たとえて言うなら。やはり納得ずくで、お客さんが納得してもらってでなければ売れん。しかも、繁盛のおかげを本当に願うならば、信用第一にと思うならば、品物も安く、しかも良い品物を、しかも親切を込めての商売で無からなければ繁盛致しません。だから、そこんところが見やすいようで難しいのです。
だから欲の深いものは座売りは出けん。「欲を放して」というところがなかなか難しい。
ですから、金光様の御信心は何処までも受け身での信心。これを教会に致しましたら、教会の先生というのは、畳半畳ですね。ここの御結界と言うところに座ったが最後動かれん。ここに座ったが最後動かれん。これが、ほかの宗旨、宗派であるとそうではない。所謂伝道である。キリスト教あたりでも、布教士が回って、お話をして回る訳ですね。道を伝えて回る訳です。
例えば、天理教なんかは、全然金光教と反対。例えばお道の教師の資格を取ると、ずうっと布教して回られる。そしてその付近に帰依する人たちができて、部落なら部落、町なら町に、土地土地の信者ができて初めてそこに教会ができる。所謂積極的である。ずうっと出て回る。
お道の信心はそうではない。まぁ言うならば消極的である。教会に信者が参ってこようがこまいが、ただここにじっと、自分でこりゃ、食べるものがなくなったけんで、こりゃ外交でもして回ろうかという訳に行かんのが、金光様の御信心の建て前なんです。それは、こういうところから、そもそもの信心が始まっておるからなんです。
畳半畳、御結界に座らせて頂いて神と総氏子との中を仲取り持っての生き方。所謂お取次ぎというのがここで成される。その代わりに、言わば座売りですから、あそこの教会に一遍参ったばってんか。先生がもうつまらん。人間的にもつまらん。おかげも頂かん。なら、もういよいよ干乾しになるよりしようがない。
ところが、こうして店を張ってからお客さんがやってきた。神様へ実意丁寧にお取次ぎをして下さった。願いを聞いて下さるだけではなくて、又、神様の心を、み教えを聞かして下さった。み教えも有難い。お願いをさせて頂いたら、次々とこのようなおかげを頂いてきた。所謂座売りのそれと同じこと。
ですから、教会でも、例えばその先生が親切であったり、商売のそれと同じこと。安かもんを高く売ったり、お供えのことばかり言よったんじゃ人は寄りつかんということになる。その代わりにこうして集まって来たが最後、どうでもこうでも助かってもらわにゃならんという熱意をもってお取次ぎさしてもらわなければならん。言うなら、真心の限りを神様へ、または参ってくる信者にもそれをお取次ぎさせていただくと言うのがお道の信心。
ですから、受け身ですからいかにも楽なごたる。ちゃ-んと座わっとるだけでよかけん。ところが、座っておるというだけもなかなかそう楽なものじゃない。やはり三代金光様じゃないですけども、「泣く泣く辛抱しいしいに辛抱」していかなければ出来ることじゃない。
だから、それが出きんならもう、お道の教師は出来ん。辛抱強いものでなからなきゃ出来ることじゃない。お参りがあろうがなかろうが、神様の前に奉仕させて頂くその精神が無からなければ出来ない。受け身である。消極的である。けれども、これは消極的と言うて、消極的だけでは済まされない。座っておいてもし、誰も参ってこない、お供えも何にもないなら、言うなら、家族が五人おるなら五人のものの命をここに掛けておらなければならない。言わば、命がけである。
してみると、消極的どころか、これはもう、実に厳しい、私は積極的、超積極的だという感じがします。積極的でも、それをもう一つ越えた積極的である。その代わり一生懸命勉強しなければならん。よそよりも安く売らなければならん。良い品物を、しかも安く。と言う精神が必要なんです。そうしていったからと言うて一遍に道が開けるという訳でもない。ね。ここんところに仰ってあるでしょう。「家内も後家になったと思うてくれ」「子供を連れてぼとぼと農業しおってくれ」。そのように言わば、命を投げ出し、欲を放して掛かっても、それは見やすいことではない。家族のものはぼとぼと、いわば、仕事を続けておってくれとこういっておられます。
神の願いによって、お道の信心が生まれた。だから、これは受け身であるからいかにも楽なようである。楽なようであるけれども、実際それを受けてみると楽なことじゃない。難しい。欲を放さなければならない。死んだ気にならなければならない。しかも、それがそうなったからと言うて一遍に出来ていくのじゃない。「子供を連れてぼとぼと百姓しよってくれ」と言うように、いつ道が開けるやら分からんような感じである。ここんところは。受け身であると言うことはね、そのような内容が必要である。女は家の家老じゃとか、女は受け身とか申します。女は世界の田地という風におっしゃいます。田地が良うないと良いものが生まれない。女は受け身。男が外へ出ていく、働くために。女はそれで家の中を取りしきっていくのが女の役目。いかにも家に居ってよかろうごたるけれども、いわば、その城が持てるのも持てないのも、その家が持てるのも持てないのも家老の腕一つというか、家内の家庭持ちが良いということに、その繁盛、繁盛じゃないが賭けられておるのである。女は受け身である。受け身のその受け身が良くないと子供が出来損なう。家内がぱっぱしよった分じゃ金は絶対残らん。どんなに親父が働いてきたっちゃ。家内がぱっぱするなら残るはずないでしょう。それを取り仕切り方が難しい。
だから、受け身ということには、そういうことにもなる。受け身なんです。だから女は妊娠をする。妊娠しただけじゃいかん。良い子を産まなければいかん。為には、世界の田地であると仰るこの、こちらの腹が良うなければつまらん。種が良かっても、それを蒔かせてもらう土地が悪かったら、良い種もあったものじゃない。受け身ということは、言うならそのように、厳選され、厳密にいうと受け物が良う無からなければいけない。しかも、辛抱役である。
受け身。ね。受け身で行け。いかにも受け身で行くということは見やすいようであって、そのように難しい。けれどもその受け身が本当にできたときには、例えばその商売のことにありますね、座売り。あちらの店はなかなか信用がある。良い品物で、しかも値段も安い。みんなも親切。そういうことになったときに初めて商売は見やすいものじゃがと言うことになるのである。信心は見やすいものじゃが氏子から難しゅうするというのはそういうことだと思う。
信心はこういう状態になりさえすれば見やすいのだ。それに、信心しておって欲を放そうともしなければ、親切になろうともしないから、難しい事になる。氏子から難しくする。
いよいよ、例えば店を張って、信用を得ていけば、こんなに楽なことはない。受け身である。もう絶対、どんなに現金売りというても、みんなが現金持ってくる。所謂正札販売ができるのである。正真正銘のものが売れる。しかも喜んでもらえる。あちらへ行けば確実だ。品物が安い。しかも品物が良い。そのうえサ-ビスまで良いということになってきたら、いよいよその店が繁盛するように、金光様の御信心とはそういう内容を持ったものでなからなければならない。教会というのはそういう内容を持ったものでなければならない。金光教の信者というものはそういうもので無からなければおかげは受けられないということになるのである。
これは、立教神伝からね、今、ここんところを頂いてから、そういう事になってくるのですよ。
そして、ここんところを御理解にはね、こういう風にございます。御理解九十節「上から下へ水を流すのは見やすいが、下から上へ流すのは難しい。道を開くというても、匹夫の凡人から開くのじゃからものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時は難しいことがあっても、辛抱していくうちには徳が受けられる」。ここにね、初めて神様の願いというものが何にあるかということが分かる感じがするでしょう。神様が厳しく言うて頼まれた。命がけで、欲を放して。家族のものも、家内も後家になったと思うて子供連れてぼとぼと。というように、大変酷なまでに厳しいことを言うて願うておられながら、こう厳しく言うけれども、こうしていくうちに、こうなって行くのだからというのが、この御理解に感じられます。
結論すると、どういうことになるかというと、金光様の御信心はね、どうしても、天地の親神様が徳を受けさせたいということになる。一時は難しいけれども、辛抱していくうちに、信心辛抱していくうちに物事が成就していくだけではなくて、その辛抱していくうちに身に徳が受けられる。ですから、神様の願いの裏にはね、どうぞ氏子信心して徳を受けて、辛抱し抜いて徳を受けて、、、。
これがまた、お商売の方へ持っていきますと、どういうことになるかというと、成程店を持ってやるのであるから、一時は難しい。お客さんを一々引っ張ってくる訳にはいかん。来たお客さんが、あの店は安い、あの店の品物は確実だ。というように、人から人への信用が、段々その店の信用になって、座売りができるようになり、売り歩かんでも家で楽に売ることができるようになり、所謂楽なんです。けど、そこには信用という、一つの徳というものがそこに、店にできるから楽なんです。座売りぐらい楽なものはない。良い品物を仕入れて安く売りさえすれば繁盛するのである。
金光教の信心も同じこと。一時は難しいことになってくるけれども、それは下から上に水を引くように難しいのだけれども、そこを辛抱させて頂いておるうちには、例え一時は難しいことがあっても、辛抱していく間には徳が受けられると仰る。辛抱していくうちに徳が受けられる。そこから、信心は見やすい。所謂、無尽蔵に、無限に限り無くおかげの受けられる、言わば、土台というものができていくのである。そのことを神様は願うておられるということを立教神伝の中から感じることができるのです。
金光様の御信心は受け身で。ですから、楽なようで難しい。難しいようで楽なんです。何時までもそこに外交して回るというのは容易なことじゃない。家に誰かが店を張って、お客様を待つ商売というのは楽である。でも、はじめから楽じゃない。やはり信用を頂かなければならない。信用を頂くために、言わば、我情我欲を放さなければいけない。
信心も同じこと。金光様の御信心の建て前というかね、が、ここんところで、立教神伝の、今日頂きましたところを頂きますと、金光様の御信心は神の願いで立てられた、神の願いによって出来た宗教であると言うことがわかると同時に、神の願いであるから、なら神様が先に走ってやるのだから楽にできたかというと、そうではない。そこに求められておるのは、取次者に対するところの厳しいところがある。けれども、なぜその酷な、厳しいことを仰っておられるかというと、結局はぼとぼと百姓しおってくれと言うておられて、そこを承れた奥様が、何時までも百姓しておられた訳ではなかった。所謂、段々道が開けた。
金光様の御信心はそういうような訳で生まれた宗教であると言うことと同時に、それが、こういうような在り方にならないとその道も開けない。こういうような在り方にならないと信心も見やすいものにならない。こういうようにならないと身に徳を請けていくことができない。神様の願いはそこら辺にある。
ですから、いかにも、受け身であることは消極的であるようにあるけれども、実を言うたら、ままよとは死んでもままよというような一生懸命のものが内容になからなければならない。それを私は、超積極的だという風に申しましたね。所謂命懸け。と言うて命を捨てるのじゃない。そこから見やすい道が展開してくる。開けてくる。そこのところを願いとしての信心。そこのところが願いであるところの天地の親神様。
だから、神様の願いが私共氏子の一人一人の上に現れていくということが、金光教の信心が樹立された、言わば、そういうおかげを頂いて欲しいという神の願いがこのようにして道が開けたということが言えるのでございます。どうでも皆さん、しっかりと辛抱力を作らなきゃいけません。同時に我情我欲を放していくところの稽古が本気でなされなければいけません。それを私は座売りのことで申しましたね。お商売の。人の信用をいよいよ受ける為に商売がある。いかにもそんだけ安く売ることは難しいことなんです。これは十円儲かられるとじゃけれども、それを八銭儲かるということは、商売人としては本当に難しいことなんです。よそより一割でも二割でも安く売るということは、非常に難しいことなんです。けれども、そこに徳の受けられる元があるのですから。そこんところを本気で稽古していかなければ行けませんですね。